AY's blog

思ったことをだらだら書いている。読んだら感想とか教えてくれたら嬉しい。

あるいは挫折という名の状態

煙草を吸う大人にだけはならないと思っていたけど、なった。

若いうちからバリバリ働いてお金を稼いで、休職なんてヤワな真似は絶対にしないと思っていたけど、した。

特におもんぱかるべき事情も、理由もなく、ただそうなった。

人生は選択の連続でも、樹形図でもなく、ただ流れの中で、成り行きの中で、いかに主体的な気分になれるかというところにかかっている。

 

パスカルはたぶん皮肉を言っている。

葦がいくら考えたところで、葦なのだ。水辺に佇み、直立不動で、ただ、考える。

そうなると、漱石の『三四郎』における有名な一節も穿った見方をしたくなる。

 

 「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。 「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と言った。(夏目漱石 三四郎より)

 

言い換えれば、頭の中より日本のほうが狭いということだ。

 

考えること、はどこまでも内向きな行為である。

その結果、外向きに影響をもたらすことはできない。

 

遠い昔、朝日小学生新聞に寄稿された爆笑問題田中裕二のことばを何故かまだ覚えている。

取り立てて努力もせず、流れに身を任せていたら、芸能界で成功した。運命に抗わないほうが、人生上手くいく。

というようなことを書いていて、幼いながらにもっと人生を指南してくれよ、と思ったし、こんなことを小学生新聞に書くなんて随分と攻めてるなぁと思った(それは今でも少し思う)が、今となっては腑に落ちる。

 

流れに身を任せる、というのは意外と難しい。

時に激しい濁流に飲まれるかも知れないし、水流が滞るかも知れない。

流れ着く先がどこかも想像がつかないから、不安になって必死に足掻こうとする。

自分の行く末や運命は自分のあずかり知らぬところだと受け入れて、たどり着いた先を、その道のりを、楽しむということが人生だし、人生において、それができうる限りの主体性だと思う。

 

という、曲がりくねった、就活生へのエールでしたが、伝わっていることを祈って。

わらってくれ

まだ青いライム。

名前はみんな知ってるのに主役になれない。酸っぱいほどに未熟。

常に楽な方ばかりに流される。選択しているようで、していない。最初から答えは決まっている。

次に、憂う。内在的な運命で片付けられない責任を、外に押し付ける。政治が、世の中が。資本主義が、ミソジニーが。

そして、諦める。全てはどうにもならないし、できないと。ただ死にゆくだけだと。

 

時間という概念を、終末へのカウントダウンだと定義づけたキリスト教の手柄は大きい。

しばしば対義語として捉えられる仏教の輪廻転生もまた同様の手柄だ。

つまり宗教とは、ただ生まれ、ただ死んでいくだけの自らがあまりにも無力であることを知らないための手段であり、「生きる意味」という"絶対に無い"ものを、日々の糧とできるほどのエビデンスである。

そういう意味で、昨年のかの事件はあまりにも含みが大きい出来事だと思う。

 

宇宙への無力に対する恐怖への抗いという、いかにも人間臭い行いであるという点において、宗教に縋っている人の方がよっぽどマトモである、と、思ったりもするが、なにも無力から逃れる手段は宗教だけではない。

無力であることから目を背けること、寓話的な「生きる意味」を見出すことは、宗教という一方通行な惚れこみのみならず、日々の家族や友人、恋人との営みという双方向的な愛情の交換で可能となる場合がある。また、人間相手でなくとも、動物や無機物に対して惚れこめば、それがそうなる可能性もある。

 

と、なると、結局愛情と呼ばれる様々な感覚や行動が、人間を人間たらしめているのではないか。逆に、先天的でも後天的でも、なにも愛せなくなってしまった人にとって、この世は本当に生きづらい場所なのかもしれない。

 

辛いとき、苦しいとき、愛することを心掛ける。それがどれだけ小さいコト/モノ/ヒトであろうと、愛することを大切にする。

なにも愛せなくなったとき、もしかしたらそのときが、終わらせるタイミングなのかもしれない。

忘れて

わたしは一回ちゃんと知り合った人のことはもっと知りたくて、誰だろうが愛したくて、どんなに昔のことでもちゃんと憶えてる。

お受験のために東京に引っ越す前、千葉の幼稚園で手紙をくれた千尋ちゃんの横に隠れてもじもじと寂しいと言ったきり真歩先生のエプロンに突っ伏して泣いてしまった海くんのことももちろん憶えてる。

大学時代に恵比寿のHUBで会って、可愛い顔してるねって言ってキスしてくれたあきこさんのことも憶えてる。

けど、わたしが憶えている人は大抵わたしのことを忘れてる。

千尋ちゃんも真歩先生も海くんもあきこさんも多分わたしのことなんて忘れてる。

そしてそれがいい。そうであってほしい。

 

わたしはちゃんと知り合ってない人には興味がない。噂で聞いた誰々とか、学年が一緒だった丸々とか、知らない。友達ヅテに告白してきた人とか、まともに喋ったことないのにわたしの個人的な噂を嬉々として話してる人とか、本当に知らない。

そういう人に急に知ったような顔されても、困る。そんなんいうなら、あん時ちゃんと話してこいよ。教室にいたなら廊下に出てこいよ。道で通り過ぎたあとヒソヒソ話すなら、出会い頭に殴ってこいよ。クソつまんねぇわたしのインスタにいいねするなら、SNSブロックしろよ。

 

わがままだけど、人の記憶に残るのは辛い。(人のことは憶えてるのにね)

その場その場で、感じてほしい。

そして、その"場"にいない人のことは、わたし本当に知らないの。ごめんね。

わたしなんか早く忘れて、楽しく過ごしてね。

はじめての徹夜

宮崎県に住むいとこたちがこちらに来て一緒にディズニーランドに行く予定だった小4の2月3日、軽い発熱をして1人家にいた。

両親は数回分の食事と恵方巻を買い与え、妹を抱えてディズニーランドへと消えた。ミラコスタに泊まるらしい。

実は昼ごろから熱は下がり体調も良くなった小学生のわたしは、ディズニーランドに行くことよりも家に1人で泊まるということの方が何倍も魅力的に感じていて、家の周りを散歩したり、テレビを見たり、ピアノを弾いたり、好き放題していた。

 

夕飯前、母から電話が来て、恵方巻の食べ方を教えてもらった。

今年は北北西だから、お風呂の方を向いて食べなさい。あんた1人だから大丈夫だと思うけど、食べてる間は喋ったらダメだからね。それと、残すのもダメよ。

奥ではディズニーランドの喧騒と、妹のご機嫌斜めな声と、父の怒鳴り声が聞こえていて、やっぱり行かなくてよかったと思った。

電話を切り、テレビを横目で、ダーウィンが来たを観ながら、お風呂の方に身体を向けて、恵方巻を頬張った。

 

小さい頃って、特段好きなものだけ美味しく感じて、そうじゃないものは全部微妙って感じてた。恵方巻も、別に好きでも嫌いでもないから、微妙だなぁと思いながら食べ進めた。

あと、単純に恵方巻って大き過ぎて、小4のお腹には本当にキツい。

そんなわけで、半分ほど過ぎたところで、次の一口に進めなくなった。

残しちゃダメなのにどうしようと思うとだんだん焦って、ますます食欲が無くなるし、横目にうつるテレビでは猛獣が草食動物を捕食してて、ぜんぜん食欲が無くなった。なんかそういえば朝体調が悪かったんだ。こんなに食べて気持ち悪くなったらどうしよう。と思ったら気持ち悪くなってきた。

次の瞬間、どうしようもなくなって集中力が切れて緩んだ手元の恵方巻から、卵がするっと抜けて床に落ち、「あっ!!」と叫んでしまった。

終わった。

このままでは、禁忌を2つとも犯すことになる。

絶対に鬼が来る。

いつもは怒鳴り声の飛び交ううちのリビングに、テレビの声しか聞こえない。無人のお風呂からは風でカタカタと窓の音がする。暖房の音がやけに大きい。

このあと1人で過ごさなければいけない20時間を考え涙が出てきたわたしは、少なくとも、残さずに全部食べ切ろうと決心した。

 

そして、涙でしょっぱくなった恵方巻を、そこから1時間かけて食べ切った。お腹はパンパンで動けず、食べ切った瞬間虚しさでますます涙が溢れた。

母に電話して途中で喋ってしまったことを相談しようとしたが一向に繋がらず、心の底からディズニーランドに行きたくなった。

こんな理由でディズニーランドに行きたくなってごめんなさい。

その後、怯えながらもなんとかお風呂には入ったものの、電気を消して意識を失うという行為が怖過ぎて、朝までテレビを観て過ごした。

鬼が来るかもしれないから起きていたが、自分自身には、親に何度か電話していたので、折り返してくれた時に出られなければ心配をかけてしまうから、と説明した。

 

結局鬼も折り返しも来ず、これがわたしの人生はじめての徹夜となった。

翌日、学校から帰宅してすぐ眠ろうとしたところ親に叱られたが、強い気持ちで眠りに就いた。

泣きながら煙草を吸ったすぐあとに歯を磨いて顔を洗っても、肺と指先に残ったニコチンとか胸の奥と目頭に残る赤がわたしを苦しめるように、泣きながら大切なものを失ったすぐあとに笑って健全な日常を過ごしても、心と脳裏に焼き付いた記憶は毎秒美化されてわたしを苦しめる。

ナイトオンザプラネットを聴きながら夜道を歩いても、朝で溶かすことのできないどんよりとした痛みが肩の上に乗っている。

もしも今ある幸せを手放さざるを得ない日が来たとしても、わたしたちの日々はそれは美しい思い出となってことばとなって永遠に大切にしまいこまれるだろう。

それは素晴らしいことだけど、ひどく不幸で悲しいことでもある。

結局ひとりよがりな人生で、何と向き合って何を解決しなければいけないか見極めるのはかなり難しい。

わたしは毎回失敗して、そのたびに悔やんで、それでもこうやって生き続ける。

常に何かに追われている。解決しなきゃいけないと思う。良い子にならなきゃと思う。頭の中で叫びが聞こえるけど、それは自身の声だとまだ分かっている。

漠然と襲いくる何かに怯えながら朝を待つ。

ペヤング

すこしむかしお洒落なタトゥーアーティストが俺の日常的なYouTubeを更新していた。

コンクリ調のイカしたスタジオに刈り上げロングでちょび髭で、夏はタンクトップ冬はでっかいコートさえ着てれば決まっちゃうような感じの、無駄に足がデカくてブーツとか似合う感じの、そういう男の人が生活したりタトゥーを彫ったりしていた。

 

なんかある日俺のメシ!みたいな感じで、

ペヤング焼きそばおっきいやつにコンビニおにぎりのせてバックバク食べてて、これがうまいんすよぉって言ってて、

なんかコメント欄も、

このドカ食いはうまい。とか

おいしそうに食べてて好き!とか

なんかそういう肯定的なコメントで溢れてたんだけど

 

冷静にまじで変だしわんぱく坊主の食べ物だし口いっぱい頬張りすぎて喉詰まりそうになったと思ったら

味噌汁で流し込むんす。

とか言っててそれはもう何なの?って感じじゃん、胃の体積埋めるための食事ってこと?食トレ?運動部なの?

まぁ炭水化物のコラボはわたしも最高だと思ってる派だけど、ペヤングの上にのせて食べるのが意味分からなすぎてウケる。

 

なんか思い出してたら見返したくなって探したらあった、題名

ペヤングルーティン】一人暮らし男子のペヤングルーティン。

 

わろた。タトゥー彫るときは、彼に頼みます。