まだ青いライム。
名前はみんな知ってるのに主役になれない。酸っぱいほどに未熟。
常に楽な方ばかりに流される。選択しているようで、していない。最初から答えは決まっている。
次に、憂う。内在的な運命で片付けられない責任を、外に押し付ける。政治が、世の中が。資本主義が、ミソジニーが。
そして、諦める。全てはどうにもならないし、できないと。ただ死にゆくだけだと。
時間という概念を、終末へのカウントダウンだと定義づけたキリスト教の手柄は大きい。
しばしば対義語として捉えられる仏教の輪廻転生もまた同様の手柄だ。
つまり宗教とは、ただ生まれ、ただ死んでいくだけの自らがあまりにも無力であることを知らないための手段であり、「生きる意味」という"絶対に無い"ものを、日々の糧とできるほどのエビデンスである。
そういう意味で、昨年のかの事件はあまりにも含みが大きい出来事だと思う。
宇宙への無力に対する恐怖への抗いという、いかにも人間臭い行いであるという点において、宗教に縋っている人の方がよっぽどマトモである、と、思ったりもするが、なにも無力から逃れる手段は宗教だけではない。
無力であることから目を背けること、寓話的な「生きる意味」を見出すことは、宗教という一方通行な惚れこみのみならず、日々の家族や友人、恋人との営みという双方向的な愛情の交換で可能となる場合がある。また、人間相手でなくとも、動物や無機物に対して惚れこめば、それがそうなる可能性もある。
と、なると、結局愛情と呼ばれる様々な感覚や行動が、人間を人間たらしめているのではないか。逆に、先天的でも後天的でも、なにも愛せなくなってしまった人にとって、この世は本当に生きづらい場所なのかもしれない。
辛いとき、苦しいとき、愛することを心掛ける。それがどれだけ小さいコト/モノ/ヒトであろうと、愛することを大切にする。
なにも愛せなくなったとき、もしかしたらそのときが、終わらせるタイミングなのかもしれない。