AY's blog

思ったことをだらだら書いている。読んだら感想とか教えてくれたら嬉しい。

高1、春、入院、美しい瞬間

高校1年が終わった春休み、怪我の手術のために二週間ほど入院した。

何ヶ月もかけて何件も色んな病院を回り、そのたびに診断結果が違い、やっと辿り着いた気難しいオジサン名医はMRI検査の画像を見るなり

「はい。切れてます。もうこんな靭帯だったらバスケ辞めちゃえよ。スポーツやんないなら手術要らないから。強豪校でもないんだし、辞めちまえ。」

とか言ってきて、わたしはそれが悔しくて悔しくて、病室で半ギレで

「………続けます、手術したいです、お願いします」

って振り絞るように言った。握り締めた手のひらには爪が食い込んで跡になってたし、鼻のあたりがジーンって熱くなったと思ったらポタポタ涙が溢れて止まらなかった。知らない大人に人生でいちばんキレた。

あとから聞いたらあれは覚悟を試してたらしい。そんな昭和の体育会系みたいなこと、病院の先生がしないでほしい。

 


簡単な手術だったが、それでも身体にメスを入れるので術後はすごく患部が痛み、痛み止めの点滴も効かず吐いてしまったし一睡もできなかった。

上記の痛みに加え足を固定された車椅子生活で身体の自由が全くきかないのに翌日に生理になって本当に最悪な気分だった。シーツを汚してしまって拭いて、トイレも汚してしまって片付けて、でも点滴もまだ繋がってて膝にはチューブも付いてるからすっごく時間がかかって、こんな自分が惨めでならなかった。

通っていた高校では2年に上がる際にクラス替えがあるので新しいクラスに馴染めなかったらどうしようって思ったし、部活では新入生が入ってくるのに顔も見られないし、勉強も進んでるだろうし、色んな友人が来てくれて本当に嬉しかった反面顔を見るたびにどんどん焦燥感が募った。

 


術後数日経つとリハビリが始まる。病院内にあるリハビリテーション室で決められた時間に筋トレをしたり、電気を流したりするんだけど、スポーツ整形外科が有名な病院だから結構スキーやってる人とか、大学スポーツをやってる人とか、そういうアスリートたちが集まってひたすら自分と向き合っていた。

そこでわたしはある女性と仲良くなった。彼女は当時大学生で、同じバスケをやっていて、高校では全国優勝したことがあり、それなりにバスケに詳しい人なら名前を言えば分かるかな。

わたしと同じ怪我をしていた。右膝を怪我して、手術してリハビリして復帰して、その日の練習で左膝を怪我したって言ってた。

最初はそのリハビリ室で一緒になったときに話す程度だったのが、すぐに仲良くなりお互いの病室を行き来するようになった。彼女はわたしにスポーツ映画のDVDとか、自分の高校時代の全国大会の動画とかを見せてくれて、バスケの勉強いっぱいしなね。今がチャンスだからね。って励ましてくれた。(スポーツ映画以外もたくさん貸してくれた。悪の教典とか観て夜トイレに行けなかった)

消灯時間になったら部屋に戻り、暗い病室で深夜までLINEした。

 


辛くて苦しくて惨めだし焦燥感やばいけど、なんとなく学校の友だちには頼れないなぁと思っていたときに、同じ怪我をして気持ちを理解してくれる優しいお姉さんが現れたからわたしはすごく嬉しくて、弟子みたいな感じで、お互い面会がないときはずっと一緒に過ごすようになった。各ベッドに配られるご飯も彼女の部屋に持っていって食べてたら、看護師さんにめちゃくちゃ怒られた。

2人で本当にいろんな話をした。彼女の今までのバスケ人生はわたしと違ってエリートコースだったけど、大学で怪我が重なって思うようにいかず不甲斐ない。元チームメイトたちが高校卒業してプロに入り活躍をしているのに、自分がこんな場所にいるのがもどかしいと言っていた。わたしは歳上の人を、自分より人生経験が豊富な人を励ます術なんて知らず、ただただ話を聞き、それでもあなたはすごいと言い、わたしはあなたを尊敬してますと素直に言い続けた。わたしもたくさんの相談をしたけど、きっとどれもくだらなかった。殆ど覚えてないから。

 


退院が近づき、お互い心の傷も膝の傷もかなり良くなってきていたとき、傷口に貼られている絆創膏を内緒で剥がして、手術痕を見てみようということになった。

病室棟にも簡易的なリハビリ室があって、簡単な器具があるだけで誰もいないことが多く、消灯直前にその部屋に集まった。

はじめにわたしが彼女の絆創膏に手をかけた。少し剥がすと「いた…」と呟き顔を歪めて、わたしが謝って手を離すと「大丈夫。傷じゃないよ」と言った。ゆっくり時間をかけて剥がし、だんだんと傷があらわになる。華奢で白いひざのお皿のすぐ下にまっすぐな横線が引かれ、均等にギザギザと縦に線が入っていた。

綺麗だと思った。

いたずらしないから触っていいですかと聞くと頷いたので、本当に優しくなぞった。少し熱を帯びていて、ギザギザは硬かった。

次に彼女がわたしの絆創膏を剥がした。確かにずっと貼られていたから、普通よりも剥がされる痛みが肌をびりつかせる。わたしの傷は彼女のよりいびつで、真ん中に向けて少し斜めに線が入っていたし、まわりもなんだか腫れていて不格好だった。彼女はなにも言わずに触れてきたけど、嫌ではなかった。触れながら、

「ぜんぜん違うね、不思議だね」

と言い、そして、すごく自然な流れで、当たり前かのように、まえに何回もしたことがあるかのように、そうすることが決まっていたかのように、キスをした。

彼女はしばらくわたしの目と傷を交互にみて、おやすみと言い病室へと戻っていった。その夜は、LINEをしなかった。

 


その後退院まで何度か顔を合わせたがその瞬間の話が出ることはなく、退院してから連絡を取ったり、たまにご飯に連れていってもらったときも同様だった。

 

彼女はたぶんわたしに恋愛感情を抱いていたわけではなくて、わたしも慕ってこそいたもののおそらく恋ではなかった。


そして、そうだとしたら。

あの10分にも満たないやりとりの美しさといびつさにお互いの心がリンクして、恋とか愛とかそんなものは一切関係なく、ただその瞬間が生まれたのなら、

 

なんて素敵なことなんだろうと思う。

 


今はもう、連絡先すら知らない。

高1、冬、美しい姿勢

二回目の緊急事態宣言で家に篭りなんとなく過ぎていく日常に発狂してしまいそうになったので、週に一度文章を書くことにした。

といっても、わたしは過去しか見ることのできないつまらない人間なので、過去の思い出とか、そういうものを短めに書いていくことにする。

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高校1年生の冬には恋人がいて、冬至直前のわたしの誕生日に一緒に映画を観に行った。お台場に着くなり、誕生日プレゼントといってフレッドペリーのマフラーを貰った。グレーと紺色のチェック柄で、そのときはそんなに気に入らなかったけどいま思い返したらかわいいかも。どこやったっけ。

お昼ご飯を食べて映画までの時間、欲しいもの1つ買うから選んで、誕生日プレゼント。って言われて、いろんなショップを見て回った。ほんとは最初に入ったお店の白いニットが良いなって47秒くらいで決まってたけど、そんな女って可愛くないかも。と思って吟味するフリをした。映画まで時間もあったし。

(白いニット…)と思いながら買い物をしても白いニット以外に見つかるはずもなく、結局それが入った紙袋を抱えて映画館へ向かった。

インターステラーを観た。圧巻であったと同時に、長かった。当時のわたしはすごく痩せていて、お肉も筋肉も全く付いていないから、長時間椅子に座っていると骨張ったお尻が悲鳴をあげる。何回も体勢を変えながらやっと観終わったときには、映画の重厚さも相まってかなり疲弊していた。

こじんまりとしたお店で美味しいステーキを食べ、駅までの道を少し散歩した。

散歩中、彼が

「道行く人を見てると、首が前に出て、背中が少し曲がって、姿勢悪く歩いてる人って結構いるよね。背が高いとそうなっちゃうよね」

と唐突に言った。わたしは特に気に止めず、

「そうだね〜。姿勢悪いのってカッコ悪いよね」

と相槌を打った。すると彼は、

「君のことだよ」

と言った。

 

わたしは背が高くて当時はすごくコンプレックスだったから、上半身をすぼめて歩く癖があった。でも、彼は当時、つまり16歳の時点で身長が180cmを超えていて、かなり背が高いと言える方だったから、彼といると本当の身長でいていいような、詐称せず背筋を伸ばして悪くないような、そんな気がしていた。

なのに長年の癖はやっぱり抜けなくて、恋人にそれを、誕生日に、楽しいその瞬間に、指摘されたことが途方もなく恥ずかしくて、何もことばを返さずに解散した。ていうか、今日一日そう思ってたんだ。ていうか、ずっとそう思ってたんだ。

 

その後、彼とは別れたし、背は伸び続けたから、姿勢はまったく改善されていない。

それでもお台場を歩くたびふと、彼の優しさに、優しさゆえの不器用すぎるタイミングに、優しさゆえの婉曲表現に、顔がカッと紅潮する恥ずかしさを覚えたことを思い出す。

背筋が伸びるようなそんな気持ちになるけど、あくまでも、気持ちだけだ。

ノンアルコール

ひょんなことから知り合った同じ大学の同い年、学年は2個下の文学部生に誘われて、人生ではじめて下北沢にちゃんと遊びに行った。

11時の待ち合わせに10分も遅れた。

 


トロワシャンブルっていう喫茶店で850円のベイクドチーズケーキセットを食べながら、彼は自分の両腕と肩甲骨、胸元に入ったタトゥーについて熱心に話してくれて、わたしはレアチーズケーキを頬張りながらふんふんと話を聞いた。日本人っていうアイデンティティがあるから和柄が良かったんだって。着物の本を3冊買って、2ヶ月以上かけて彫り師の人と話し合って決めたんだと自慢げだった。見合うな〜とも、似合うな〜とも思った。じいちゃんとばあちゃんが死んだら、左腕の彼岸花の傍に命日を入れるらしい。わたしも何人かの友人と、若くして死んだら左胸の下に名前を彫ろうって約束してたけど、命日の方がいいなって思い直した。

コーヒーは思ったよりも酸っぱくて、酸っぱくない?って聞いたのに。って少し憤ったんだけど、それもそれで美味しかった、ケーキもあるし。

ヴィヴィアンのシガレットケースにPeaceを入れてて、何本か吸ってた。早死にするねって言ったら、30歳くらいで死にたいし、って言ってた。綺麗なまま、全身のタトゥーを見せつけながら棺桶に入りたいんだって。少し分かるけど、きっとわたしは現世への未練が強すぎてだらだらとしがみつく。余命宣告されてもなお、だらだらと。大切な人が何人もいるんだもん。

コーヒーもケーキも無くなって3杯目の水が注がれたくらいで、俺ら長居しすぎだね、って言って席を立ちお会計をした。お財布はギャルソンで、さすがだなって思った。あとで聞いたら香水もギャルソンだった。やっぱりなって思った。ご馳走様って大声で言ってた。つられて大きな声を出した。

 


お店を出て古着屋に向かった。わたしはカレーとか食べたかったけど、彼は絶対に一日3食とか食べないタイプの人間だから黙ってた。

古着屋で彼の服へのこだわりを知って、少し嫉妬した。用語とか分かんないし、店員さんと親しそうだし。結局、8800円でサンローランのカラフルなトップスを買ってて、それはもう本当にお似合いで、ここに着てきたかと思うくらい、もう既に君のものくらい似合ってるよって言ったら笑ってた。水面みたいにゆらゆら笑うなぁ。

わたしはなかなか心にくるものが見つけられなくて、電車で原宿に移動することにした。

夫婦でやってる狭い古着屋さんで、そこでわたしは散々におだてたれ、いい気になって、2着も買ってしまった。お店を出た瞬間、やっちゃったなぁ…って呟いたら、また水面が揺れた。

 


原宿から渋谷まで散歩して、また彼の行きつけの羽當っていう喫茶店に行った。そこで彼はコーヒーとかぼちゃプリンを上品に嗜みながら、元恋人の話をしてた。同じものを目の前に置き、またふんふんと聞いた。終わってしまった人を尊重し続けられるのは羨ましい。恋愛観とか、家族とかの話をした。彼は誰に対してもリスペクトがあるようで、だから自分自身もリスペクト出来ているような感じだ。良いんじゃないでしょうか。わたしには出来ないことだから。わたし自身の恋愛の話も、少しした。本当、言えるところだけ。

Peaceをまた吸った。この強くて甘いタバコが、平和っていう名前なのなんなの。平和って絶対もっと、あやふや。

 


18時に喫茶店を出て、夜ご飯は家族と食べるから、30分だけ散歩しようって言った。渋谷って散歩っていうことばにそぐわない。数時間前の下北がもう恋しくなって、寂しくなったけど、別に思い入れとかないんだった。渋谷にも別にない。そう思ったら、もっと寂しくなった。あと3日で満月になる不完全な月が、さらにそれを助長して、紛らわすために下を見てたらたくさんの吐瀉物に出会った。やっぱり散歩にそぐわなさすぎる。

帰り際、良いお年を〜ってお決まりのセリフを言い忘れ、ただいつものようにお別れした。はじめて2人で会ったけど。

 


2020年後半は、立て続けにかなり良い出会いをしていて幸せだ。彼らを会わせたいような会って欲しくないような、複雑な気分だ。

もう終わるね、今年。

それだけ。

ノブレスオブリージュ

全国でもかなり偏差値の高い女子高校に通っていた。

生徒の半数は内部進学、残りの半数は熾烈な受験を勝ち抜き入学するが、

入学式を終えると行事には全身全霊で、部活にもある程度の熱量を持って取り組むという自由かつ快活な校風に揉まれ、忙しなく日々を過ごすことになる。

エスカレーター式で大学に進学できるということもあり、残念ながら、自発的に勉学に勤しむ生徒はそう多くなかった。

 

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そこには "名物先生" とでも言うべき年配の国語の先生がいて、彼の口からその教養をもってして面白おかしく語られる森羅万象は、

多くの生徒にとって、冷たい都会の真ん中に佇むオンボロ校舎に、満員電車に揺られながら毎日通うための立派な口実にさえなり得た。

 

ほかに、様々な教師がいた。

ある程度自己評価の高い生徒たちが自惚れぬように厳しく接する人、

大学教授のように淡白な授業をする人、

または中学生にするように懇切丁寧に教えてくれる人、

誰しもが一癖も二癖もありつつ、生徒たちもまたそれを楽しんでいたように思う。

 

 

さて、彼の場合は、決して私たちを貶めたことばを口にしなかった。むしろ、

「君たちがこれからの日本を担う」

「君たちは未来のエリートだ」

「君たちに子どもが生まれたとき、彼らにとって最初の国語の教師が君たちであることを誇りに思う」

褒めすぎでしょうとこちらが照れてしまうほど、このようなセリフを授業中に毎回、おっしゃった。

 

しかし今考えれば、なにも私たちを好きで、褒めたくて、伝えていたのではない。

彼は責任を植え付けようとしていたのだ。

人としての、21世紀を生きる人としての、責任である。

 

 

ノブレスオブリージュということばをご存知だろうか。

フランス語で、直訳すると

「高貴さは(義務を)強制する」

という意味だ。

19世紀のフランス貴族が発し、小説家が広めたとされている。

端的に言えば、

"権力や地位を持つ者には、それなりの振る舞い方があるよね"

ということばであり、主に貴族や王族が、その権力を濫用、または無為にしないようにという意があった。

 

自分に関係ない、と思うだろうか。

 

 

恐らくこれを読んでくださっている方の大半は、19世紀フランスにおける

「貴族」

であろう。

 

 

自分の話をすれば、

冒頭に偏差値の高い云々と書いたが私はと言えば内部進学者で、ロクに勉強もせずスポーツに明け暮れるアホであり、

最初は彼の口から出る褒め言葉も耳をほじって聞くような有様であった。

 

だが、どれだけ自己評価が低かろうと、堕落していようと、

現にトップクラスの学校に在籍し、日本で見れば上の方といえる大学に進学することが決まっていて、かなり恵まれた環境に所属していたことも、紛れもない事実であった。

 

この、自己評価と所属との乖離が、ノブレスオブリージュという考え方に大きな暗雲をもたらすことは言うまでもない。

 

分かりやすくしてみる。

例えばある貴族がいた。

彼は頭が悪く周りからの評判も良くなかった。

そこで彼は開き直り、貴族の名の下甘い蜜を吸いながら何もせず、ただ死んでいった。

この場合、彼の子どもはどうなるだろうか?

彼のような貴族がたくさんいたら、貴族全体はどうなるだろうか?

もちろん、堕落の一途を辿るだろう(そして悲しい哉、史実はそれを証明した)。

ではどうすれば良いか。

彼の自己評価、他人からの評価に関わらず、貴族であるからには貴族としての責任を持てるように、「成長」していくべきなのだ。

もしくは、貴族であることをやめるか、どちらかだ。

 

さて以上から、

自己評価を所属レベルまで押し上げていく努力(*1)、それによる成長こそが、

形を変えた現代においても同じく、

ノブレスオブリージュの本質ではないだろうか。

そしてこのギャップを埋めようと、先生は三年間かけて地道に、まるでサブリミナル効果のように、私たちにあのような褒めちぎりを与えてくれていた。

 

 

今、大学生になって

様々な学生団体、はたまた教授に関する問題や、就活で上を見ればキリがないこと、元々の自己評価が低いこと、様々な理由で、

何となく自分を卑下して、

同時に自分の所属も卑下してはいないだろうか。

謙遜が形を変え、ルサンチマンなど知らぬふりをして、怠惰な安寧に身を委ねてはいないだろうか。

 

しかし、自分が所属する場所が日本(*2)の上位何%にいるのか、よく考えてみてほしい。

 

上に立つ者が自らを卑下してしまったら、その下全てが価値の無いものに成り下がってしまうと思う。

 

社会的に担っていく責任とか、義務とか、まずはそんな大それたことでなく

今自分が発言すること、発信するもの、行動する態度を、一人一人が

ノブレスオブリージュを心に秘め考えていければ良いのにな、と

 

自戒を込めて、そう思う。(*3)

 

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先生は数年前に惜しまれながら定年退職し、悠々自適に隠居生活を送っている。

まだまだ未熟な私は

いまだ彼に、手紙の一つも送れていない。

 

 

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注:

お分かりかと思いますがノブレスオブリージュと傲慢は似て非なるものです。今回は傲慢な人たちには全く触れていません。

 

*1: 努力がキツい人もいます。無理しないで。

*2: 世界で考えるとまた話は変わってきます。

*3: 自戒を込めてというかほぼ自戒です。巻き込んですみません。

 

 

夜はかなしく暗いもの

 

3,4週間前、コロナの不穏な空気が漂い始め、自粛ムードが膨張しているさなかのわたしたちの約束といえば

「終わったら〇〇行こう」

「終わったら〇〇しよう」

 

だんだんと、国内全体が悪影響を受け、都は緊急事態宣言なるものを出し、完全に社会生活が以前のように立ち行かなくなってからの日本の口癖といえば

「乗り越えよう」

「終わるまで我慢しよう」

そして

「明けない夜はない」

 

ただ人々は心の中で思う、

おそらく、

この夜はしばらく明けないと。

 

そんな中で

このコロナ禍を「夜」と定義してしまったら、朝を待つことしかできなくなる。

 

夜が来る前の昼を懐古しながら、まだ見ぬ朝を待ち焦がれる。

終わったら○○しよう、○○の中身は大抵、昼にしていたことだ。

 

ありふれた未来を望むあまり、脳内がひとりでに過去に逆行しはじめたわたしたち。

社会活動が止まり、経済活動すらままならないわたしたち。

 

このまま、朝を待ち焦がれていても、

いたずらに自らを苦しめるだけだと思う。

 

 

 

こうなってしまったらもはや、日常とはつまり過去だ。

日常を取り戻すために非日常を乗り越えるべく頑張ろう、なんていうのは、いささか甘い考えな気がする。

 

いま本当に必要なことは、

非日常を新日常にしていくための努力だ。

 

コロナ禍がいつか収束/終息したときのアレコレを絵空事で考えるのではなく、コロナ禍

(いや、敢えてもうコロナ「渦」かも知れない)

の真っ只中で、今、何をするべきか考えることだ。

 

「いずれ全てが終わったとき」に役立つこと

(例えば、部活動におけるトレーニングやミーティングなど)

をするのも勿論大切だと思うが、

同時に、この状況は継続的にわたしたちの生活に関与し、そして馴染んでいくことも、大きく視野に入れる (つまり直視する) 必要がありそうだ。

超ロングスパンで考えながら、

いずれ戻ってくる (と考えられている) 今までの日常Aのためだけではなく、この現実を新しい日常Bにするための行動をするべきだ。

中身が空っぽな楽観論は、そろそろ危険になってきた。

 

終わったら○○しよう、ではなく今する。

出来ないのなら代替案を考える。

乗り越えるのではなく受け入れる。

きたる朝のための我慢ではなく、机上の空論を語ることの我慢をする。

 

このコロナ禍を「夜」と定義するべきではない。

夜はかなしく暗いもの。そして静かに終わるもの。

 

新しい朝だよ。

土砂降りの。悪い夢で目が覚めた。

底冷えしていて、寝巻きにサンダルじゃ新聞紙すら取りに行けないくらいにひどい天気だ。

喧嘩中の家族はおはようも言わない。

NHKのアナウンサーが四角の中から凄惨な殺人事件を伝えている。

朝食にと焼いたパンは焦げ、コーヒーで舌を火傷する。

 

でも、

 

それでも朝だ。

 

続いていく。

続けていくしか方法は無い。

 

終わると思わず向き合うべきだ。

甘受し考えるべきだ。

 

と、思いますけどねぇ〜

 

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てか普通に出来てたはずなのに最近状況が長期化するにつれて現実逃避が増えてるよねテレビとかで。

状況に抗っている、という状況に抗っていけたらいいですね。

ある男

‪大学2年の頃、よく飲みに行く男がいた。

悲しげな目をした背の低い男で、紺やグレーを好んで着ていた。色白で清潔感があり、物を触る手つきの柔らかい人だった。たまに吸うhi-liteも優しく持つので、よく落としていた。日差しよりも木漏れ日が似合うような人で、ゆうがたは彼のためにあるような気さえした。

 

彼はわたしのビール嫌いを克服させてくれ、わたしは彼のワイン嫌いをそうした。

1pintが思ったより多いことや黒ビールが納豆みたいな後味のすること、多くの人は赤より白の方が飲みやすいということが分かった。

ワインで酔っ払った彼は大概にして楽しそうで、好きでもない女と手を繋いで真夜中の横浜を歩き、普段からは考え付かないほどの饒舌で世の中についてを語った。彼といると、蒸し暑い夜には心地よい風が、凍える夜には風が止んで左手に伝わる体温が、いままでよりも繊細にわたしのもとに届くようだった。

 

会うたびに数冊、本の貸し借りをした。

‬‪わたしは彼の海外文学嫌いを克服させ、彼はわたしの女性作家嫌いをそうしてくれた。

彼は一冊ごとに興味のある本を探すわたしと違って作家にのめり込み買い揃えてしまうタイプで、村上春樹江國香織綿矢りさ、そして谷崎潤一郎の本をほとんど買い揃えていた。

日常的で写実的な描写を好み、長編小説は途中で我にかえってしまう、と言って短編集をよく読んでいた。少しだけ独特で洗練された文体がお気に入りで、それに対して短いセンテンスで感想を述べるスマートな読書家だった。

 

お互い将来の夢なんてものは無くて、むしろ未来に絶望していて、学校にも就職にも、日本にも世界にも、そして何よりも自分自身に、希望など持てずにいた。

小説という空想の世界の中で、酒が魅せる甘美な虚構の中で、厭世的な態度で、互いの中にある自身の弱さを甘やかしていた。

フロイトのいう投影とも少し違う防衛機制をお互いに働かせて、わたしは好きでもないタバコを吸ったし、彼は毎回、好きでもない土地まで送ってくれた。

 

 

2年と3年の間にある春休み、彼はしきりにあるゼミの話をしていた。経営史と産業史を学ぶそこではディベートに力を入れており、優秀な人が集まっていて、就活にも有利なんだと目を輝かせていた。

ゼミなんて入る気も無くまして就活なんて考えたことすら無かったわたしは、別人のように活動的な彼を劣等感から茶化すことしかできず、彼がある程度難しいと言われる面接をクリアして入ゼミが決まったときも、素直におめでとうとは言えなかった。

なんで急に大人になってしまったのかが分からなかったし、まだまだこどもでいたかった。

そんなわがままを聞いてくれる人はたくさんいるけれども、

"相手の同じようなわがままを同時にわたしが聞いてあげられる"

という存在は彼以外に考えられないのだった。

 

3年になり彼はほとんど毎日をゼミに費やすようになった。飲みの誘いも飲みに誘っても来なくなり、借りた本を返すチャンスさえ無かった。

春に貸した本は夏になっても読んでいないようで、

わたしは江國香織を読まなくなった。

 

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この話はここで終わる。是も非も無い。

彼とはたまに連絡を取るし、多分しつこく誘えば飲みに行ける。彼は彼でおそらく本をまだ読んでいるし、わたしだってそうだ。

それでも、彼がモラトリアムから大人に成長するとき、わたしはそれを哀しいと思った。

その現実がわたしから、わたしと彼とをもう一度対等に交流させる選択肢を奪った。

 

就活も佳境だ。

彼に置いていかれたわたしは、どうやって大人になるのかが

いまだに分からない。

ボーイッシュでいること。②

まずお詫びしたいのは、前回の文章がこんなにも多くの友人たちに読んでもらえるとは思ってもみなく、結論があやふやかつ、わたしが伝えたいことの半分もお伝えできなかったことについてである。

前回のブログの中では、

「この"男尊女卑"の世の中で、私はそこから逃げる手段を持っていたよ。」

という所で終わらせた。

ただ、それはまだ起承転結の承、までなのであり、

今回の ② ではしっかりとわたしなりに転結、させたいと思う。

最初に言っておくことがあるとするなら、

わたしは決して"男尊女卑"の話をしたい訳では無いのだ。

もっと言えば、わたしはフェミニストだが、フェミニズム的帰結も、この文章の中では全く望んでいない。

 

 

 

ボーイッシュな外見で居続けることで、

男社会、つまり客席側での生活は大変心地よいものとなった。

具体的には前回と重複するので書かないが、とにかく、今まで感じていた上下関係というか、目に見えない差が、目に見えて消えていく嬉しさに感激していた。

 

では舞台側からの反応はどうか。

ひねくれ者のわたしだが友人にはとても恵まれており、ほとんどの人が、

変わってるだの、オトコみたいだの、なんだかんだ言いながらも受け入れてくれた。

小学校から一貫校に通っているので、元々の性格や服装がボーイッシュ寄りだったことも皆知ってくれているし、高校が女子校だったことも幸いした。

大学に入ってから知り合った友人たちも、柔軟性に富んだ素敵な心の持ち主が多く、外見でいじられることはあっても、困ることは無かった。

 

客席に馴染むことができ、舞台からは笑顔で送り出してもらえたわたしが、これ以上何を望むのか、いや何も望まない、とニヤニヤしながら日々を過ごした

のは

大学一年生の終わりまでだった。

 

さて、ここからが本題。

 

二年生になり、ボーイッシュに箔がついてきたのか、初めて出会う人たちから

「ボーイッシュな女」

でなく

「男」

と認識される機会が増えた。

同時に、この奇異なる女の存在に慣れた友人たちの一部も、「男友達」としてわたしを扱いはじめた。(あくまでも一部ではあるが)

さらに、さまざまな繋がりや大切な友人の誘いでゲイコミュニティに行くときでさえ、時には当たり前のように「男役」のロールプレイを求められた。

ストレートの女性からも告白されるようになり、あなたは恋愛対象外である、と伝えると、理解不能、みたいな顔をされる。わたしがストレートの女性を好きになる可能性は0では無いが、それがさも当たり前、という認識をされる。

 

気付けば、道の外側を歩き、コンビニで一緒に買ったお酒を持ち、夜ご飯の店を決め、ボディタッチに気づかないフリをして、

 

 

わたしは、

男、という舞台にいる。

 

ご飯に化粧をしていって拍子抜けされるのも、ヒールを履いて必要以上に囃し立てられるのも、サークルで初めて会った女の後輩に盗撮されるのも、お会計間際に長めのトイレに立たれるのも、ピザを4:2で食べるのも、彼氏と上手くいってない女の子がこれ見よがしにわたしとイチャつく動画をインスタのマイストーリーに載せるのも、

友だちだと思っていた女の子の手が、二軒目の居酒屋では自分の内腿にあるのも、

全部、

女による品定めだ。

 

どうしたものか。

青と黒のドレス、一度見えたら、白と金にしか見えなくなってしまった。

同じように、舞台と客席、一度感じたら、

逆に感じるようになってしまった。

 

仕方の無いことなのだろうか。

子孫繁栄のための本能で、男は女を品定めし、女は男を品定めするのは仕方の無いことなのか。

 

わたしは、違うと思いたい。

男も女もどちらでもない人もどちらでもある人も、関係なく、人生を過ごせるはずだ。

理性と知性とユーモアで対話が出来るはずだ。

そして、その先に、本能に因る素敵な性のカタチをあらわせるなら。

 

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わたしは、この世界で女は男の「商品」として見なされていると、女は女という舞台で男だらけの客席に向かって踊らざるを得ない、と強く感じ、そこから抜け出すための手段としてボーイッシュでいることを選んだ。

しかし、その結果として分かったのは

この世界で男は女の「商品」として見なされていて、男は男という舞台で女だらけの客席に向かって踊らざるを得ないという状況も、

同時に存在しているということだ。

そして、それを両方感じとることができた体験は貴重だと思い、皆さんに発信した。

 

 

 

この世界でジェンダー差別をするのは、決して男性だけじゃない。

具体的な被害を受けた訳では無いのに、なぜか性的に搾取されているような気分になり、言いようもなく惨めになるのは、決して女性だけじゃない。

生まれた性別によって"良い思い"をしているのは、決して男性だけじゃない。

数千年前から与えられた性の役割を演じることが強制されているのは、決して女性だけじゃない。

そして勿論、わたしが文章内で出した「男」「女」になんてまったく当て嵌まらない人たちも、数多くいる。

 

人間に生まれた以上、性別というものをまったく取り払って考えるのは難しい。

だからこそ、

すべての人が、無意味な性別バイアスに囚われる前に、一人の人間として扱われますように。

すべての人が、無意味な性別バイアスに囚われず、一人の人間を一人の人間として扱うことが出来ますように。

 

そんなことを、考えながら

わたしはボーイッシュでいる。

逃げる前にいた舞台も、今いる舞台も、早く幕が降りるように  公演が中止されるように

ブーイングを浴びながら、ただ、立っている。